ここ最近(2017年夏)、オフィスの利用者もおかげさまで随分増えてきました。
(一部予約枠、予約取りづらくてすみません…)
そのような中で、若手(10代後半~30代前半)に比較的最近多い悩みが表記の通りです。
「私は一体何のために生きるているのか」(生きる意味が見いだせない)
「私は一体何のために仕事をするのか」(仕事をする意義が見いだせない)
「私は一体何のために学校に行くのか」(通学する意義が見いだせない)
これは極めて個々人として重大な問題であり、人類の有史以来の疑問ともいえるでしょう。
私は哲学は専門外ですが、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」というのは聞いたことがあります。
(デカルトですよね…? 悩んでいる私がいるから、私の存在は疑いようがない的な…)
しかし、近年当オフィスにいらしている方は、そう簡単な話ではないようです…
親の教育や時代背景による「依存」と「呪縛」
今の若手(10代後半~30代前半)の親というのは、主に40歳~50代くらいがほとんどです。
50代の親御さんは、いわゆる「バブル」を経験している世代です。
当時の価値観は、やはり今の価値観とは当然異なるものです。
大学に行って、就職して…というのが一つの「出世コース」として確立していたようですね(私はあまり詳しくはありませんが)。
そのため、子どもにも大学教育をさせるわけですが、当の現代の子ども本人は別段何かがしたいわけではありません。
すると、いったい何のために学校に行くのか、働くのか、が明確にならないまま社会人になります。
社会人は、ご存じの通りストレスばかりですので、それを乗り越えていけるだけのメンタルの強さが必要ですが、もともとの土台が揺るがされているようでは当然ストレスを越えていけません。
言ってしまえば、親のひいたレールに「依存」をしていた「結果」の一つとも言えます。
もちろん、親御さんも良かれと思ってやっているわけですので、責められるものでもありません。
一方で、(この話は現代に限ったものではありませんが)親が与えた勉強に対して高得点を取り続ける(=いい子であり続ける)ことによる「なんのために…」という場合もあります。
この場合、子どもは勉強を進んで行っているかのように見えますが、それはプロセスであって、結果として欲しいのは「親に褒められること」と言えます。
テスト勉強ができる子、偏差値に高い学校に行って親が自慢できる子、というのがアイデンティティになってしまいます。
すると、大学に入った後に徐々にうまくいかなくなります。
大抵の場合、大学入学と共に成績社会と別れを告げるからです。
(学歴社会は依然として残るところもありますが、それは履歴書の学歴欄の話です)
親も、高校の時ほど大学の成績には興味を示さないのがほとんどでしょう。
すると、親にいい子として褒められたいのに、それをする手段もなければ、大学に通う意味、ひいてはその後の社会で働く意味も見いだせなくなります。
こういったケースが、親の「呪縛」ともいえるものです。
成績のいい子、親の言うことを聞く子であることが愛されることであり、成績や親の言うことがなくなる(成長する)に従って、自分の存在そのものがよくわからなくなってきてしまうのです。
いずれにせよ、結果として大学や社会で頑張るというモチベーションがなくなってしまうわけです。
とはいえ、上述の方全員が当オフィスにいらっしゃるわけではありません。
①それでも自分なりの意味を見つけて通学・通勤が続けられる方。
②自分なりの意味を見出せなくても、何となく通学・通勤を続けられる方。
③何もわからなくなって、通学・通勤ができなくなっていく方。
大きく3つの道があると思います。
①②の方は、日常生活を送ることができます。
問題は③の方ですね。
「依存」と「呪縛」からの脱却
上記③に対しては、現在これに著効する薬物療法などはありませんし、おそらく今後もないでしょう。
自分で決めて、自分の人生を自分のものとして背負っていけることが必要です。
理想的で素晴らしい結論ではなかったとしても、それを「自分で決める」ことが必要になります。
一方で、その作業はまずもってお一人で行うことは困難だと思います。
なぜなら、何がどうわからないのかもわからないからです。
ここに、カウンセリングを受ける意味があります。
自分一人でわからないので、他者の視点をいれ、 一つ一つ丁寧に考えてみたり、見つめ直してみたりする必要があるのです。
最終的には「納得」と「決定」が必要になりますが、そこに行きつくまでは多少の時間がかかります。
早い方は1シーズン3~4カ月程度、長い方は1年以上もかかる時もあります。(頻度は別問題として)
しかし、今までと同じようにしていると、また同じようにどこかで行き詰ってしまいます。
しっかりとしたカウンセリングは、ご自分の人生の決定を納得してできるものでもあります。
決して占いのように、決めたことの背中を押すものや、暗示するものではありません。
道を照らし、隠れていた道も見つけ、分岐点一つ一つで一緒に考え、いつしか一人で歩いて行けるもの。
それがカウンセリングという営みです。
心理カウンセリングオフィス燈では、簡単に伝えられる答えなどを安直には伝えません。
(というか、簡単だったら病んでません)
お一人お一人をみつめ、その本質的理解と、そこからの改善を目指しています。